LOGIN今では、そんな戦争があった事さえ忘れかけられている。王都も戦禍に巻き込まれる事も無く終わり、国民に被害は出なかった。自国の戦争と言っても離れた国境で起こった出来事だ。関心も薄れるのが早い。我が家は曽祖父の恩恵にあずかっているから語り継いでいるけれど。
そんな|曾祖父《そうそふ》が、妻である曾祖母と出会ったのが現フェリット伯爵邸。旧友の妹として訪れた曾祖母に一目惚れした曽祖父はその場で求婚。妹を溺愛していた旧友と一悶着あったものの、無事に結婚できたと聞いている。
屋敷はレンガ造りの二階建て。蔦の絡まる古い母屋はそう広くはないけれど、庭にバラ園があり今は花の盛りを前に蕾が膨らんできている。私はそのバラ園が大好きだった。代々フェリット家の女主人が大事にしてきた場所。十三歳で王都に移住した私の成長は、このバラ園と共にあった。
殿下との結婚が実現したら、この屋敷とも別れなければならない。王宮と比べるなんて不敬かもしれないけれど、私にとってはかけがえのばい場所だ。帰って来れないなんて事はないと思うけれど不安は募る。
王妃としての仕事も多忙を極めるだろう。私は淑女教育を受けたとはいえ、それは貴族としての教育だ。王妃となるとまた勝手が違う。
溜息を吐く私に、ネフィが控えめに声をかけてきた。
「リージュ様、殿下との婚姻はお嫌ですか? ︎︎貴族の令嬢ならば誰しもその地位を望みます。国母ともなればその権力は絶大です。何かお気になる事でも? ︎︎意中の殿方がいらっしゃる訳でも無いのでしょう? ︎︎この気を逃しては、ご結婚も難しくなってしまいます。それは私共としましても、あまりに不本意です。殿下は誠実な
その口ぶりに、私は苦笑いを浮かべる。
私は別に、殿下を嫌っている訳では無いのだ。お会いした事も
ルストニカ平原は、国境の森から約二日の距離にある。 このままアックティカとトスカリャが進軍を続ければ、一週間後には森に辿り着くだろう。そこで叩かない理由は、ゲリラ戦を得意とする傭兵がいるためだった。 ルストニカ平原で布陣を築けば、我が軍は迎え撃つ体制を整え、王都を戦火から守ることもできる。しかし、それは相手も重々承知しているはずだ。 そうなれば、やはりこの戦の肝は国境の森、テューフグリューンが握っている。 平原を横断するこの森は、越えるだけなら半日程度の深さしかない。けれど、東西に長く伸び、その樹影に潜み後方に回られてしまう危険性も持ち合わせている。補給路が立たれれば、勝てる戦も勝てなくなるのは必定だ。 今開かれている軍議も、まさにその件についてのもの。 私は身重のため着席を許され、椅子に座ってその様子を見つめる。 主だった貴族が陛下を中心に円卓を囲み、ざっくりと描かれた地図に注視していた。陛下から見て下方にカイザークの国旗、中央にテューフグリューンを示す緑の線、その上にアックティカとトスカリャの国旗が描かれている。カイザークには青、アックティカには赤と黒の駒が複数配置され、白い髭を蓄えた元帥、ホルター様が場を仕切って声を上げた。「十中八九、敵は傭兵を重用するでしょう。陽動、攪乱、そして補給路の断絶を狙って行動すると予想します」 ホルター様は黒い駒を、緑の線の上へ移動させ、その淵に沿ってカイザーク軍を表す青い駒の後ろに回す。ここまでは、私でも分かる流れだ。問題はその後。ホルター様はアックティカ、トスカリャの連合軍へと視線を向ける。「アックティカの戦力は、その殆どが民兵です。兵士も、繁忙期には農民として畑に出ます。その錬度は極めて低いでしょう」 そう言って、一部の赤い駒を後ろに下げる。「そのため、主戦力はトスカリャと見て間違いありません。大将首は首領、ダッツェ・バズ。十年連続で首領を務めている猛者です。しかし、戦となればこちらに利があります。一対一と多対多の違いを思い知るでしょう」 トスカリャの首
トスカリャに動きあり。 その報がもたらされたのは、陽射しが厳しさを増す夏至の事。奇しくも一年前の開戦と同じ時期だった。懸念していた山間トンネルがついに完成し、脅威がまたひとつ増えた事になる。まだ先と思われていたトンネルの開通は、クムト様が私達の元に来てから僅か数十日で強行され、多くの人命を飲み込んだ。 山を削るのは相当な労力を必要とし、自然の驚異を嫌が応にも思い知らされる。鉱山でさえ多くの犠牲が出るというのに、国を隔てる山脈を貫こうというのだからその数も膨大になるだろう。どれだけ補強に力を入れても不意に崩落が起こり、進めば進むほどに酸素は薄れ、有毒なガスが噴出する。 それは人間如きが適う相手ではなく、長い歴史の中でも成し遂げた者はいない。それをアックティカとトスカリャという小国がやり遂げたのだから、瞬く間に噂は広まり世界が震撼した。 鎖国で情報規制をしていたアックティカだけれど、トンネル開通だけは大々的に報じている。そして同時に、世界へ向けて宣戦布告を突きつけた。 いくら偉業を成し遂げたとはいえ、二国合わせても人口は三十万にも満たない。しかもその人口は、国全体を合算してなのだから戦に動員できるのは更に少なくなる。その中には戦えない女性や子供も含まれ、純粋な戦力はざっと見積もっても三万。ほとんどが民兵、そこに傭兵が加わるはずだ。 前回の戦では傭兵が一万強を占めていた。今回は新たにトスカリャの兵も加わる。前回よりも、訓練を受けた兵が増えると予想されていた。 私はと言えば、懐妊が確実なものとなり、徐々にお腹が大きくなってきている。アルは素より義両親である両陛下や両親、妹方、皆が喜んでくれていた。婚姻までのあと二年間が待ち遠しいと、既に準備は進められている。 一口に二年と言っても、王室の婚姻式となればそう気の早い話ではない。ドレスや装飾品は一流のものが使われるから、布地の選定、お針子や商人の人選など時間と手間がかかるのだ。 今、私に宿る命を迎える準備も同じ。肌着やおむつは厳選された素材が使われ、乳母はアルもお世話になった旧知の子爵婦人が選ばれた。この方はアルの遠縁で、先王の姪だそう
その後のアルの行動は早かった。 まず化粧品や衣服に使われている染料、石鹼や洗剤、香油まで成分を調べあげ、妊婦に良くない物を排除していく。特に香油は薬としても使われるし、料理に使われる香辛料も薬草としての側面があるから神経を尖らせていた。その食事も栄養豊富で、それでいてあっさりとした物に変え、果てには離宮を彩る植物まで徹底して堕胎に繋がる物を植え替えてしまう。 乳母はもちろん乳児に必要な品々まで、全て揃うのに一週間とかからなかった。私は何度も『まだ確定ではない』と言ったのだけれど、どちらにせよ必要な物だからとアルは譲らない。 私はネフィと打ち明けるのは早まったかと溜息を吐いたものだ。嬉しくない訳では決してない。アルは喜んでくれているし、陛下や王妃様も気遣ってくれる。だからこそ、余計にもし勘違いだったらと不安が募っていく。 そして王城の空気も、次第に緊張感が増してきた。 王太子の子供なのだ。男児であれば次期王太子、女児であれば他国との国交に繋がる可能性がある。 つまり、命を狙われるという事。 カイザークの人々は温厚だと言われているけれど、中には腰抜けだと侮る国も存在しているのは事実だ。この国は森を有し、海洋国家ルーベンダークとも近く、平時であればアックティカから豊富な農作物が手に入り、一年を通して飢えに苦しむ事が無い。気候も温暖で、立地に恵まれたこの国を狙う者も多いのだ。 そんな者達にとって、王位継承者の誕生は邪魔でしかない。 アックティカもそのひとつ。未だ交戦状態は続き、大きな戦にはなっていないけれど、国境では小競り合いが頻発していた。昼夜を問わず奇襲をかけ、兵の疲弊を誘っているのだろう。 そこに王太子妃懐妊の報が流れれば、暗殺も危惧された。アックティカに対する警戒は怠らないけれど、憂いは他にもある。それはアックティカの北方、雪の国トスカリャだ。 トスカリャは、アックティカと山脈で隔てられた陸の孤島。比較的温暖なアックティカと違い、山脈で遮られた寒気が停滞する極寒の地として知られる。 広大な国土は万年雪に覆われ、夏でも気温は
ネフィと二人、くすりと笑うとアルが拗ねたように口を尖らせる。「二人だけずるいよ! 僕も仲間に入れてくれてもいいでしょ? 何かあったの?」 その言い様に、また笑みが零れる。あまり意地悪をするのも悪いと思い、打ち明けた。「まだ確定ではないのですが……覚悟して聞いてくださいね?」 表情を引き締めて言うと、アルも居住まいを正し頷く。「実は、月のものが遅れているのです。まだ数日程ですが、念のため香水を控えています。香水には酒精が使われていますから、万が一も考えられますでしょう?」 その言葉に、アルは目を見開き固まった。そしてネフィが続ける。「予定では殿下のご帰還後だったのです。しかし三日三晩、その後もずっとですからね……可能性は否定できません。御典医のベルリア様にも診ていただき、しばらくは安静にとご指導を受けております。ですので、殿下」 ネフィはちらりとアルに視線を移し、ちくりと棘を刺す。「夜のお勤めも、控えていただきたく存じます」 するとアルは百面相を繰り広げる。ぱっと明るくなったかと思うと、焦ったようにおろおろと視線を泳がせ、何度も口を開閉するけれど、どれも言葉にならない。お母様が仰っていたけれど、本当にこういう時の殿方って、面白い反応をなされるのだと感心してしまった。「喜んでくださらないのですか……?」 わざと悲しい顔をして見せると、アルはぶんぶんと音がなるほど首を振る。「そんな事ある訳ない! すごく嬉しいんだ! でも……ダメ、なの……?」 そろりとネフィを窺うと、返ってきたのは無情な答えだ。「はい,ダメです」 アルは項垂れるけれど、顔を上げるともう顔つきが変わっていた。「うん、そうだよね。何よりも、リリーの体が一番大事だ。僕が我慢すればいいだけだし、リリーが苦しむのは見たくない。ネフィ、何かあったらすぐに知らせて。執務中でも構わない。乳母も探さないとな……いや、リリーはどうしたい?」
忙しなく部屋から退出したクムト様を見送り、アルは肩を竦めて見せ、それに私も同意の苦笑いで応えた。でもひとつ息を吐くと、扉を見つめ悔し気に声を絞り出す。「あいつ、いつもああなんだ。人の心配はしつこいくらいにするのに、自分がその立場になるとすぐ逃げる。僕達だって、ずっと子供のままじゃない。いつまでも守られてばかりじゃ嫌なのに」 今日の訪問も、きっと私達を心配して来てくれたのだろう。アックティカに関しては陛下にも当然報告しているはずだから、遅かれ早かれ軍議の際に共有される。それをこうして、直接訪ねてくれた。そして多分……。「適当な奴だけど、父上も、お爺様も、みんなクムトが好きなんだよ。つい憎まれ口叩いちゃうけど、僕もそう。だからシーアと再会して幸せになってほしいし、心から笑ってほしい。あいつの笑顔は痛くて、辛い……」 アルは私の肩に頬を預け、耐えているようだった。流れる金の髪を撫でながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。「クムト様も、皆がお好きなのでしょうね……。開戦のあの日、軍議でお茶を運んできた下位の騎士にお声をかけていらっしゃいました。お名前を呼んで、お子様のお話を楽しそうに。私もできるだけ覚えようとしていますが、まだまだ未熟だと思い知ったんです」 小さく笑うと、アルは不思議そうに顔を上げる。きらきらと輝く瞳は、まだ幼さを残していた。『そんな前の事、覚えてるの……?』と、ちょっと慄いているのが気になったけれど。 この激動の時代に、王太子となったアル。それは死と隣り合わせの、そして残し残される道。もしかしたら、クムト様はご自分を重ねているのかもしれない。「ただ長生きしただけで賢者にはなれません。他の名を遺す方々も短命であれど、何かを成し遂げたからこそ賢者、そして英雄と呼ばれるのです。ね、アル。二人でクムト様を支えましょう? 王として、王妃として。いつか必ず訪れる福音を、皆で喜べるように」 驚いたように瞳を瞬かせ、アルは私を凝視する。私は微笑み、頬に触れた。「クムト様も、貴方も、ひとりじゃありません。どうか頼ってくださいませ。私には、貴方も泣
それからクムト様は、どれだけ自分達が愛し合っていたかを熱弁し始めた。「ボクもシーアも、すごくモテてたんだよ~。今は白くなちゃったけど、この髪も金色でね。女の子に良く声掛けられてたな。シーアはね、めちゃくちゃ可愛いの! 黒い髪が綺麗で、澄んだ青い瞳が印象的なんだ。その上、愛嬌があって、町の食堂で働いていたんだけど、働き者で可愛いって噂が広まって、ほとんどのお客さんはシーア目当てって言われるくらい!」 両手を大きく開き、身振り手振りで婚約者を褒め称える。今もまだ、その姿は脳裏に焼き付いているのだろう。当時の空気、匂いさえも。「その町は宿場町でさ、いろんな人が訪れてた。人種も職業も様々で、賑やかだったな……」 空を見つめるクムト様の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。いつも気丈に振舞っているけれど、やはり不老不死は人と隔絶した存在。五千年もの間、どれほどの友を見送ってきたのだろう。長い刻の中でも忘れれられない恋人との記憶、そして再会こそが、クムト様の原動力のように思えた。 アルも神妙に話を聞いている。「父さん、母さん。弟のルイ、隣のトゥディ、ゼクおばさん……皆の顔は忘れた事ない。旅の中で出会った人達、皆、皆覚えてる。仲良くなった人も、喧嘩した人も」 クムト様は幸せを噛み締めるように、目を閉じて思い出に浸った。軽薄な態度の裏側には、計り知れない慈愛が隠されている。それが痛い程に伝わって、私まで涙が滲んできた。 そんな私を見て、クムト様は可笑しそうに笑う。「どうしたの、りっちゃん。ここは笑う所だよ? ボクの記憶に、泣き顔なんて残したくないな。ほら、あっちゃんも。じじぃの昔話なんて、笑い飛ばしてくれなきゃ」 ケラケラと声を立てておどけてみせるけれど、そんなに軽い話ではない。会えない時間の重みを知った私には尚更。 それはアルも同じで、真摯な眼差しで応える。「笑わないよ。お前はお調子者だけど、僕達の事を誰より考えてくれてる。以前、父上が言ってた。クムトはカイザークの父だって。精霊王と交渉したのも、お前なんだろう?︎ ︎ ︎人間の行いに激







